いつもありがとうございます。
「そらいろ」の店主ひろです。
誰しもが「幸せになりたい」と思っていると思います。
幸せだと感じる時間ってどんな時ですか?
「欲しいものが買えたとき?」「家族でご飯を食べているとき?」「YouTubeを観てるとき?」
「幸せ」とは何なのか?を少し考えてみたいと思います。
幸せの過敏性
まずは「今、皆さんは幸せですか?」
この問いに対しては幸せ/不幸せの両社回答得られると思います。
ですが、「1日1食満足に食べられない人」から見たらどうでしょうか?
多くの方は「幸せ」と答えるのではないでしょうか?
住む家、食事、インターネット、衣服、水、酸素は当たり前にあり、戦争は当たり前にない。
「あると幸せだと感じるはずのものがあっても、当たり前にありすぎて幸せだとは感じない」
これが「幸せの過敏性」です。
べき主義
令和の時代SNSが当たり前ですよね。
SNSは「日常」に見せかけた「非日常」が多いと感じています。
それを日常だと感じてしまったとき、「あの子はこんなにキラキラしているの、私は全くできてない。だから不幸せだ。」と考えてしまうんですよね。
それが、幸せであるためには「あの子のようにキラキラしなくてはいけない」「もっとこうあるべき」といった考えに置き換えられていきます。
もはや、強迫観念で、プレッシャーを常に与えられている状態です。
人に与えられた幸せ
ここで、一つ質問です。
「ベンツに乗っている人は幸せですか?」また「いいなーって思いますか?」
正直、私は「ベンツに乗れるなんて幸せでしょ」と感じてしまいました。
では、「無人島でベンツに乗っている人は幸せですか?」
無人島でベンツに乗っても意味ないでしょ?と思いませんでしたか?
実は、「ベンツに乗っているか」は幸せとは関係なく、「ベンツに乗っている姿をだれかに見られること」が幸せと感じると気づきましたでしょうか。
いつの間にか、私たちは「人からどう見られるかで幸せを判断」するようになっていたのです。
この状態では、「私はベンツに乗っていないから不幸せだ」ということになってしまいます。
便利になっても幸せにはならない
小学生の時と大人になってからでは同じもののはずが、感じ方が違うことはありませんか?
私の場合、マクドナルドのハンバーガーなんて、小学生の時は1年に1回食べられるかどうかでした。
そんな時に食べるハンバーガーは今でも忘れない美味しさでした。
しかし今は、好きな時に食べられていますし、その時の味なんて対して覚えていません。
昔と今ではハンバーガーに対する感受性が変わったのではないかと思います。
昔はなかなか手に入れられなかったもの、今は簡単に手に入るもの。
ありがたみが無くなってしまったのかもしれません。いつの間にか「当たり前」になってしまったのだと思います。
最初にお話ししました「幸せの過敏性」の話に戻りますが、便利になると当たり前になり、幸せだと感じなくなってしまいます。
つまり、「便利になると、当たり前になり、幸せだと感じにくくなる。」といった流れです。
幸せとは?
それでは、幸せになるためにはどうすればよいのでしょうか?
身近には幸せが溢れており、当たり前すぎて自分自身が気付けていないだけです。常に感謝の気持ちを忘れずに生活をすることが大切です。
また、他人がどう感じるかではなく、自分自身で自身が幸せかどうかを判断することも重要です。
「小さな幸せ」と言いますが、これが「当たり前となった幸せ」だと思います。
皆さんも「小さな幸せ」をたくさん集めてみてください、きっと幸せになると思います。
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